「看取りは苦手です」
「人の死にどうやって立ち向かっていますか」
よく聞かれます。
私は看護師14年目になりますが、今まで100人以上のお看取りに関わらせていただきました。
”看取り”は私にとって大切なケアの一つです。
もちろんお看取りに当たらないに越したことはないでしょう。さっきまで温かかった人が冷たくなっていく。話していた人が話さなくなる。
辛くて当然です。
”看取りにあたりたくない”と思うことも正直ありました。
今私にとって”看取り”は大切にしているケアです。
そして看護師として忘れられないのはお看取りした人のことばかりです。
看取りについて想いを綴ることは悩みました。何度も書いては消してを繰り返しました。
”経験知”を語ることで、もしかしたら誰かの背中を押せるかもしれない。そんな思いで”お看取り”について、死への向き合い方についての私の想いを綴りたいと思います。
今は看取りの度に思います。
「私をあなたの最期の瞬間に選んでくれてありがとうございます。」と。
なぜ”死”が怖いのか。

あなたは死ぬのが怖いですか?
私は怖いです。可能ならば死にたくはないです。ですが”死”を避けることは現代の医学をもってしても不可能なこと。
生あるものはいつか死す。
これは自然の摂理です。
ではなぜ怖いのでしょうか。
それは2点理由があると私は考えます。
1つ目は、死んだ後のことが想像できない。
2つ目は、忘れられてしまうかもしれない。
この2つなのだと思います。
▶予想がつかないから不安になる。怖くなる。
・死の瞬間は痛いのか、苦しいのか。
・死んだ後はどうなるのだろう。
看取った経験がある方であれば、火葬されてお骨になってお墓に入るという流れは容易に想像できるでしょう。ですが亡くなった本人はどう感じるのでしょうか。
残念ながらこれは誰にも分かりません。
”意識が無くなる”というのは分かっていても、人間は意識下で生きているので、”自分”というものを意識の中で認識しています。
息を引き取る瞬間、意識がなくなる瞬間。それは死の瞬間まで分からないのです。
そして分かったとしても数秒で意識はなくなり、言葉にして、想いとして誰かに伝えることはできません。
「死ぬ瞬間は痛くなくして欲しい」
患者さん本人からよく言われる言葉です。
「苦しまないで逝かせて欲しい」
患者さん本人からもご家族からもよく言われる言葉です。
「最期は苦しまなかったですか?」
「痛くなかったでしょうか」
痛くなかったか、苦しまなかったか、これは想像するしかできません。
「痛くなかったと思います」
「穏やかな顔をしていますね」
このように伝えることもありますが、正直なところ亡くなる方ができるだけ痛くないように苦しくないようにと願い、関わることしかできないのです。
だから”死は怖いのか”に関して議論しても考えても、答えは分からないのだと思います。
▶忘れられることは、悲しいことなのか。
「忘れられるのが怖い」
そういう人も多くいます。
自分が生きてきた”存在”を忘れられるのが怖い。
私も忘れられるのは怖いです。
では”なぜ”忘れられるのが怖いのでしょうか。
大切な人が亡くなった時、この世の終わりというくらいに悲しみに打ちひしがれるでしょう。
食事ものどを通らず眠ることもできず、四六時中故人のことが頭から離れない。これからどうやって生きていったらいいのか分からなくなることもあるでしょう。
ですが生きている人は生きていくしかないのです。
人によって時間は異なりますが、多くの人が少しずつ前を向いて生きていけるようになります。
こうして四六時中頭から離れなかった大切な人が意識下に浮かぶ時間が少なくなり、泣いてばかりいた毎日に時々笑える時がくる。
そんな時にふと「あ、忘れている時があった」と思い出すことがあります。そんな時に”あれだけ苦しんでいたのに平気になってしまっている自分がいる”と忘れてしまっている自分を責めてしまう。
そして、自分が命を全うした後に同じように思い出されることが少なくなっていく。
これが”忘れられるのが怖い”に繋がるのだと思います。
時が経ち、少しずつ前を向いて歩けるようになっても、忘れてしまったことではありません。
心の中に大切に抱えながら生きていくことなのです。
確かに涙で明け暮れることはなくなるかもしれない。でもその人のことを忘れるわけではない。
あなた自身が大切な人のことを心から大切に想うことができたら、それでいいのだと私は思います。
初めての看取りは、心にぽかんと穴が開いた感じだった。

100人以上のお看取りを経験し看取りに対して”怖い”という思いはなくなりました。
今でこそ大切なケアだと心から思えますが、初めての時は冷静でいることはできませんでした。
昨日までいた人がいなくなっている。それでも当たり前に行われる看護業務。心にぽかんと穴が開いた感覚になりました。
「人が亡くなるってどんな気持ちですか?」
先輩に聞いたことがあります。
「慣れだよ」
先輩からはこう返ってきました。
人が亡くなることが慣れるのか。死後処置が”処置”となり”業務”となってしまうのか。
私には疑問が残りました。
大切な人を亡くし泣き叫ぶ人、泣き崩れる人、怒りをぶつける人、多くの方と接する中で自分の心をコントロールすることができなくなりそうな時もありました。
複数名受け持ちをしながら、一人お看取りした後に部屋が変われば笑顔で接している。多重人格になった気分にもなりました。
仕事道具の乗ったワゴンを押しながら、別の患者さんの部屋に向かうまでの数分だけ、こみ上げてくる涙を堪えたこともあります。仕事が終わり家路につく自転車を漕ぎながら大泣きしたこともあります。
人それぞれ死に方も様々です。
家族に見守られながら亡くなる方もいれば、間に合わない人、そもそも家族がいない人、本当に一人ひとり同じということはありません。
多くの方の最期に携わり、生きるとはなにか、死とはなにか、家族とは、愛とは、多くのことを学ばせてもらい気付かせてもらっています。
100人以上を看取って感じる、死への向き合い方。

死は誰しもが避けて通ることができないこと。
生あるものはいつか死にます。どんなに長く生きたいと願っても、現時点では永遠の命というのはありません。
人は失ってから大切さに気付くことが多いです。当たり前にあることほど、当たり前すぎて感謝の気持ちや大切さを忘れがちになります。
当たり前のことなんて何一つないのです。
私が今こうやって拙くても想いを綴っているブログ。
両手が動かせて目が見えて、頭で思考できるから想いを綴れます。もちろんどんな状態になっても言葉を綴ることはできるでしょう。
でも”今の私”には手が動かないことも目が見えなくなることも想像の世界でしかなく、ありがたい大切なことだと頭ではわかっていても瞬時に忘れていきます。
人間は思考を繰り返して生きている生き物なのです。
▶死は避けられないからこそ”今”を懸命に生きる。
常時当たり前のことに感謝し続けましょう!というわけではありません。
当たり前にできているに感謝をしていくことが”生”を全うすることなのではないでしょうか。
生きていれば欲がでます。
お金が欲しい、素敵な人に出会いたい、美味しいものを食べたい、まだ見ぬ世界を見てみたい。
欲があることは素敵なことです。
夢があることも素敵なことです。
これもまた、生きているからこそできることなのではないでしょうか。
だからこそ”生”に一生懸命になってほしいと思います。
看護師としての”生”への想い。

生きていれば楽しいことだけでなく、辛いことは悲しいこともあるでしょう。悲しいことに自死を選択する人も多いです。
ですが生きているからこそ感情を感じることができます。辛い時は辛すぎて周りを見ることもできないと思います。
ですが忘れないでください。
あなたはひとりじゃないよ。
どんな形であれ繋がれる人がいます。
大丈夫。共に”今”を生きましょう。