「あなたはもう無理」
看護師として生きることを決めがむしゃらに走り出した14年前、看護師1年目の夏。
有りもしないいいがかりから「あなたはもう無理」と先輩に宣告された。
勘違いからの言いがかりと3か月続いたイジメ。毎日泣き、辞めたいと言いながらも辞めれなかった看護。辞めなかった看護師。
今なら言える。
「経験は武器になるよ。10,000回叩かれても、10,001回立ち上がればいい。」
私を求めてくれている人がいる。
だから私は“看護師として”、そして『職業“中村綾”』として自分らしく生きていく。
おばあちゃんは私が守る!

「実はね、おばあちゃん余命半年なの」
高校受験の合否判決が届いた日、母から告げられた祖母の末期がん。
入院する病院に家族でお見舞いに行った。
「あやちゃん」痩せ細り背中が小さくなった祖母の姿を見て胸が痛くなった。
元々祖母とは年始に電話をするくらい。
「あやちゃんからの手紙が一番嬉しい」と言われながらも、思春期独特の反抗期と照れくさい気持ちで素直に行動に移せないタイプであった。
初めて見る身内の病気。病床に伏せる祖母の姿に無力さを感じた。
入院していた病院はどこにでもある病院。
病院独特の匂い、医療関係者のバタバタとした足音。入
院患者のドヨンとした重い空気。
居心地はいいものではなかった。
検温(血圧や体温を測定する看護業務のひとつ)のために病室に来た看護師。祖母の名前を呼び業務的に検温をしていく。
「大阪から孫が来てくれたんですよ」
嬉しそうに話す祖母に「そうなんですね」と心のこもっていない言葉をかけた。
その時の祖母のふと見せた切なそうな表情。
病を抱え余命半年と宣告され、死という恐怖と向き合いながら生きる彼女の姿を見て私は誓った。
「おばあちゃんは私が守る」
私が看護師を目指した理由。
生い立ち

福岡県生まれ。
といっても3歳くらいに父親の転勤で東京に引っ越したため福岡の記憶はほとんどない。
小3で大阪に転校し看護学校で東京に上京。
地元と呼べる場所はなく親がいるところが地元。そういう感覚で育った。
3人姉弟の一番上。母に聞くと”面倒見のいい物分かりのいいお姉ちゃん”だった。
なにかのメディアで南米の発展途上国で、ガイコツの前で笑顔の少年の写真を見た記憶がある。
その時漠然と”人のために何かできる人になりボランティア活動がしたい”幼心に想い描いた夢であった。
▶出会いと別れ。東京に恋焦がれた日々。
小学校は3か所経験した。転校が嫌で泣く私に当時の先生からの一言。
「振り向いてもいい、立ち止まってもいい。だけどね、目も足も前にしか向いていないんだよ。過去を見るもの大事だけどこれから先の未来を見つめてほしい。君ならできるよ」
転校した当時は、9歳くらい。
『○○君が好き!私の方が好き!』みたいな恋愛話が盛んになる年頃であった。
当時学年一イケメン(?)に「俺、お前のこと好きだわ」と言われ転親衛隊女子からのいじめがはじまった。
男子トイレに閉じ込められ水をかけられ、男子に助けられてまたイジメられる。
そんなことが日常茶飯事であった。
女子のひがみ妬みは怖いな・・・と洗礼を受けた。
親同士が介入し解決したが少しだけ女子が苦手になった。
小4で大阪に転校することになった。
都内で引っ越しするのとは違い「もう二度と東京には戻れないんだ」と絶望を味わった。
父の運転する車の後部座席の真ん中。両親の肩越しにどこまでも続く道路照明灯を見て、まだ見ぬ土地への期待と不安を膨らませた小4の夏であった。
引っ越してすぐの1月、1995年1月17日発生した「阪神・淡路大震災」。
目を覚ますと両親がタンスを一生懸命押さえていた。TVで連日報道される被災状況に自然災害の恐怖と死への恐怖を初めて感じた瞬間であった。
看護師人生の始まり。

▶看護学校は補欠合格だった。
受けた府内の看護学校は不合格が続いた。私は一年浪人することとなった。学費を稼ぐため派遣社員で実演販売や営業、シルクドソレイユの公演バイトなど様々な経験をした。
営業を経験することでビジネスマナーを学んだ。
シルクドソレイユでは公演以外の練習風景などを見ていく中で”自分の好きなことをして生きていく”人たちの生き方がかっこよく見えた。
私もイキイキと生きたい!と強く願いようになった。
そしてチャンスは突然訪れた。
シルクドソレイユ東京追加公演が決まり東京に行くことができることになったのだ。
二度と戻れないと思っていた東京に行ける!心が弾んだ。
東京は子どもの頃の印象とは違いキラキラとしていた。
東京という文字を見るたびに心が弾んだ。東京タワーのライトは大阪に引っ越す車中から見たどこまでも続く道路照明灯と重なった。
「東京に帰りたい」そう強く願った。
▶念願の看護学校合格!道が拓けた瞬間。
受験した看護学校は、倍率10倍、募集定員30名の狭き門。結果は補欠合格だった。
自分に看護師の道はないのか。道が閉ざされたと涙が溢れた。3月下旬の昼下がりの午後1本の電話が鳴った。繰り越し合格の連絡だった。
リビングで電話に出た私は震え、キッチンに居た母は涙していた。
すぐに荷物をまとめ上京。わずか2日間の出来事であった。引っ越し作業を終え大阪に帰る母の背中を見て「私は看護師として生きます」そう決意した。
▶看護学校は甘くなかった。

やっと入れた看護学校。解剖生理学、疾患、治療、看護技術…何もかもが新鮮で楽しかった。
余命宣告されていた祖母は自宅療養が許可され、食欲も出て末期がんであることがウソのように生き生きとしていた。
「おばあちゃんは私が守る」そう願った自分の想いが叶う日が近い。
そう思うとますます期待に胸が弾んだ。
しかし現実は甘くなかった。
周りを見渡すと授業中寝ている人ばかり。
“色んな人がいるな”と思いながら一方通行の授業内容をまとめていた入学したばかりの4月。
「勉強されると眠れないから、勉強やめて」。
寝ている横でペンを走らせる音が気に入らないと囲まれた。
見上げる先のクラスメイトの怒る顔。仲間外れが始まった。支えてくれたのは先輩と教師だった。それがまた反感を買いいじめの対象となった。
人はどこまでも妬みひがみ羨む。そして、言葉や態度に傷つく自分。家に帰れば一人。
寂しかった。何度も退学を考えた。
「いじめをしてくる人のために、看護師になりたいの?そうじゃないでしょ?」
声をかけてくれた先生がいた。私はやっぱり看護師になる。そう決意した。
▶晴れて念願の看護師になれた!

2007年国家試験に合格し晴れて看護師になった。
最初に受験した病院は”東京タワーが見えればそれでいい”という浅はかな気持ちで大学病院を選択した。配属された病院は分院(一般企業で言うならば、本店と支店のようなイメージ)。東京タワーが見えないなら意味がないと思い辞退した。
自分はどんな看護師になりたいのか。
具体的なイメージがない中で、循環器(心臓病)の勉強が一番楽しかったのを思い出し、循環器が学べる専門病院を選んだ。
看護師になれば志の同じ仲間がいる。私の心はワクワクしかなかった。
▶プロとしての在り方に気づいたできごと。
初めての採血は緊張で手が震えた。
「血管は一つじゃない、右がダメなら左があるよ」と何度も失敗する私を患者さんは優しく励ましてくれた。どんなに練習をして臨んでも失敗する。採血が怖かった。師長が後ろで腕組みをしながら高圧的な態度で見守る中、失敗した私からでた言葉。「他の看護師さんに変わってもらいます」
「他の看護師さんってなに!患者にとって、1年目も10年目も20年目も、看護師は看護師。プロとして意識を持ちなさい。」
看護師としてのプロ意識が強く芽生えた瞬間だった。
人の命を預かる以上ミスは許されない。
知識も技術も必要とされる中で自分の無力感を感じつつ、目の前のことに一生懸命に取り組んだ。
一度言われたことは二度と言われないようにと心がけた。今思えば”可愛げのない後輩”だった。
「先輩教えて」と甘えることができたら、処世術があれば、この後起こる人生の大きな出来事に出会わなかったのかもしれない。
▶「あなたは、もう無理よ」宣告。

仕事にも慣れ看護という仕事が楽しくなってきた頃の日勤終わり。
帰宅しようとした時に先輩看護師呼ばれた。
「私に何か言うことない?」
その日を振り返り何も思い当たることのなかった私は「今日は頑張ったと思います」と伝えた。
バンッ!!!
目の前の机が揺れ大きな音が響いた。「嘘つくんじゃない!受け持ちの心電図とっていないじゃなかい!」と怒鳴られた。
心電図(不整脈などを記録する機械)は私が取り、すでに帰宅していた先輩が片付けてくれていた。先輩が機械を片付けている間に私は他の仕事をしていた。
心電計を片付けている先輩をみて「心電図をとっていない」と勘違いしたのだった。
鬼の形相となった先輩には何を言っても理解されず嘘つきの連呼。しまいには違う方向に話が発展し一時間半説教された。
「私はどうしたらいいですか?」と泣きながら声をかける私に放たれた言葉は「あなたは、もう無理。」だった。翌日から壮絶なイジメが始まった。
そこからの3か月は記憶にないくらいに壮絶だった。
泣きながらSOS出すも動けない日々・・・
「もうやめていい?」「今日やめていい?」と泣きながら母に電話をしては、状況をすべて把握できていなかった母は励まし、私も世間体を気にして出勤をし続けた。
勤務終わりは「明日やめていい?」と泣いて電話。それの繰り返しであった。
私は自信も自己肯定感も喪失し、数年かけて適応障害になった。
突然襲ってくる不安と希死念慮。辛かった。
母は「あの時、辞めていいよって言って上げれてたらよかった」とのちに私に話してくれた。
母に状況は話していたが、そこまで深刻であったとは想像していなかったようだった。
▶あなたはもう無理。宣告からの状況変化。
「あなたはもう無理」宣告を受けてから3か月が経過し面談が行われた。師長に全てを話した。
「全部知っているわ、あなたが話してくれるのを待っていたの」
「え!わかっていたならなんで・・・」そこからやっと事実確認がなされ(遅すぎる・・・)、心電図をとった人は私であると証明。取り巻く環境が180度変わった。
イジメの主犯格の先輩から呼び出され泣きながらの謝罪。謝罪文は3通以上もらい、当時の私は許した。むしろ許すしかできなかった。
もしあの時文句の1つでも言えていたなら私の人生は変わっていたかもしれない。
▶自信がなく、自己肯定感がなくなった。
謝罪され誤解が解決したとはいえ心に刻まれた深い傷は癒えることはなかった。
フラッシュバックのように思いだしトラウマになった。
自信がなくなり自己肯定感が低くなり、人を信じることができなくなった。
何をやっても信じてもらえない、真面目に何かをしてもイジメの対象になる。そんな固定概念が私に出来上がっていた。
いつしか心に壁を作り人付き合いでは当たり障りない関係を築くようになった。
寂しい、だけど怖い。そんな葛藤の毎日であった。
▶自分の知識と技術で勝負したい。
看護師2年目の夏、病院の隣のバイク屋で爆発事故があった。
幸い事故自体の被害は少なかったが、当時5階の病棟で患者さんと関わっていた時の爆発音は衝撃であった。黙々と立ち上がる炎。そして走って現場に向かう医者の姿。
「自分の知識と技術で勝負できる救命救急に行きたい」と強く思うようになった。
看護師4年目に念願の部署異動。
CCU(Cradiac Care Unit)内科系循環器集中治療室に配属になった。
心筋梗塞、急性大動脈解離、心不全などの対応や、院内急変対応などもするようになった。
人間関係での問題は多少あるものの、自分の知識と技術を磨けば患者を助ける一助になるのではないかと思い働いていた。そして発生した3.11東日本大震災。
”自分には何もできない”という無力さとともに「循環器しか見れない」という専門病院の現実を感じ、大学病院等の救命センターで働きたいと転職を決めた。
▶希望が通らない現実。”やりたい看護”ができない・・・。
大学病院に転職するが配属先は手術室であった。
これが現実か・・・と思いながらも、手術室での経験は役に立つはず!と、全ての科の外回り、器械出し(医者にメス!と言われたらメスをバシっと渡すような人のこと)ができるようになった。
病院前外傷教育プログラム(JPTEC)や災害医療標準化コース(MCLS)、二次救命処置(ACLS)などの指導資格を取り、災害医療派遣チームや災害支援ナースとしても活動するようになった、
手術室看護師が救急や災害に携わるなんて・・・と救命センター看護師からの嫌がらせはあったものの、志の高い仲間に出会えて毎日が刺激的で楽しかった。
▶配属は救命とは真逆の終末期看護師・・・。
手術室勤務3年目を終えようとするタイミングで異動辞令がでて、配属されたのは泌尿器科・婦人科病棟。病棟の急変対応の底上げ係であった。
思い描いていた救命救急とは180度と言っていいほど異なる部署。終末期(死期の誓い方)や、がん患者様を看ることになった。
正直複雑な気持ちになった。なんで私が・・・とも思った。しかし「あなたに看てもらいたい」そんな言葉も多くもらうようになった。私なりの”心に寄り添う看護”を与えられた場所で頑張ろう。そう思うきっかけとなった部署であった。
ココロを壊し、適応障害になった。

ある日突然めまいが出現。数秒で落ち着くめまいが日によっては10回以上続くことが毎日続いた。耳鼻科、眼科、脳神経外科、めまいが考えられる疾患を否定したどり着いた病名が「適応障害」であった。
適応障害、心の病気。
精神的ストレスが結果的に適応障害に繋がったのであった。
母に泣きながら「適応障害だって・・・心の病気になってごめんなさい」と電話した。電話口で母が泣いていた。
今まで心の病に自分がなるなんてと思っていなかった。
心は簡単に壊れてしまう、人の弱さを感じる出来事であった。
幸い環境を変え支えてくれる人のおかげで症状はよくなった。
適応障害になりながらも続けた緩和ケアへの取り組みんだ。
「誰かを支えようとしている人ほど、誰かの支えを必要としている。」
この言葉はエンドオブライフケアの研修を受けた時に聞いたものである。誰かのためにと奮闘し頑張ることしかできなかった私。しかし本当は自分が一番支えを必要としていたんだと感じた。
私はやっぱり看護師として生きる!そう心に誓った。
同じころ祖母は天国に旅立った。祖母を助けることはできなかったが今目の前にいる人を大切にすることが私の看護になった。
▶念願の救急病棟、でも現実は甘くなかった。
看護師10年目、救命センターで働く夢を諦めきれなかった私は3か所目の病院転職をした。そしてやっと念願の救急関係の病棟に配属となった。
「この病院に骨を埋めよう」そんな意気込みで入職したが現実は甘くなかった。
病院の特殊なルールや体質、私が描いていた救急での最前線とは程遠く中途採用の人間を排他する傾向がある病院であった。
救急・災害・緩和の資格を持っている看護師は珍しく都合のいいところだけ利用された。
名無しさん、拘留中、交通外傷、薬物中毒、様々な患者がいた。
”人間とはなにか””生きるとはなにか”切に向き合う時間になった。
▶個人病院へのヘッドハンティング。
理想と現実のはざまに揺れ動く中、一番初めに就職した専門病院時代の先輩から「今看護部長しているから、うちに来ない?」と連絡がきた。
小さな個人病院の循環器専門病院であったが必要としてくれる人がいるという嬉しさから、私は即転職を決めた。
救急病棟は7か月で終了となった。
▶命の最前線から離れることを決意した。
病院勤務の傍らライフワークとして主軸を置いているのが”後世育成”と”非医療者への普及活動”である。
現場に行く仲間は「選ばれた自分はすごい!」と自慢することが多かった。現場で行く人がいる一方で病院を守るスタッフがいる。選ばれた人がすごいわけではない。そこに矛盾を感じた。
現場に行っても助けられる命には限りがある。
被災地にボランティアで行っても数日から数か月で表立った支援が終了していく現実。
自分に何ができるのだろうか・・・。
私が選んだ道は自分が最前線で動くことではなくなった。
・最前線で動く仲間の支援をすること。
・非医療者の人が地域で自分たちの力で生活していけるように普及活動をしていくこと。
この2点になった。
そして同じ志を持つ仲間が一人でも増えれば助けられる命が増える。
そんな思いで普及活動に全身全霊をかけるようになった。
熱意で県も動かせる!

私が携わる研修に災害時の薬事に特化した研修(災害薬事研修:PhDLS)がある。
薬のことを薬剤師に任せることができたら専門職が支えあい災害時に支えあっていける。そんな思いから災害薬事研修を普及させたいと強く思うようになった。
2018年当時埼玉県で未開催であったが薬務課と埼玉県庁に連絡を入れ、看護師が主体となり1年越しで研修を開催することができた。
熱意があれば人の心を動かし、大きな結果につながる。そう感じた出来事であった。
”看護部長”という世間一般的な出世コースを断った。

看護師12年目の夏。独立開業する医師から看護部長として一緒に働いてほしいと依頼が来た。
自分の実力を認めてもらえ理想を求めて高めあっていけると思い快く快諾した。
しかし新規立ち上げは準備含め相当な労力と、立ち上げに対する思いがスタッフ全員で同じ方向性を向いていなければうまく行かない。
意見の相違はあった当たり前であるが建設的な話し合いができなくなった。一度のこれからの人生高めあっていける仲間と過ごしたい。
看護部長の座を断った。看護師13年目になる前職有休消化中。
やばい、働く先がなくなった・・・。
▶働き方を常勤から変え、パラレルワーカーへ。
働く先がなくなった私。
常勤という基本給含め安定の給与形態から、非常勤という働き方にスタイルを変えた。というよりは変えざるを得なかった。
そして今はパラレルワーカーとして2か所の医療施設で働きながら普及活動に主軸を置くようになった。
私が考える看護とは。

「看護」手と目で護る。
自分の持てる経験や知識・知術・観察力で、その人らしさを護っていく。
これが私の中での看護である。
また、関わる人が自分らしく生きられるように、強みを強化し弱みはサポートし、関わる人が更に輝けるようにすること、これも私にとっての広義の意味での看護である。
私はどんな働き方になっても“看護師”という職業は辞めない。そして、看護師という肩書で生きるのではなく、職業=中村綾として生きていく。
最後に:あなたは無理じゃない。
「あなたはもう無理」
1年目の時に言われ、心傷ついた。でも無理ではなかった。自分が目の前のことに一生懸命に取り組んでいけば、必ず道は拓ける。これから先も私は、自分の信じた道を歩いていく。
そして、たった一人でもいい。自分のことを真剣に思い、共に歩んでくれる人が一人でもいれば私は頑張れる。
言葉に傷つけられ、何度も人に傷つけられてきた。だけど私は言葉が好きで、人が好き。これから先、どんなに傷ついても、経験を武器に、10,000回叩かれても、10,001回這い上がる女であり続ける。
これが私の生きる道。