「病院やクリニックで病気の人を看る人」
看護師といえばこのイメージが強いでしょう。
法律的にも”診療の補助”と”療養上の世話”と規定されていて、病気の人や健康状態ではない人の回復に尽力することが多いです。
今まで様々な現場で働き、多くの患者さんやご家族と関わる中で「私の考える”看護”とは何か」と自問自答することがあります。
新型コロナウイルス感染症が流行する中で、連日メディアで報道されている”看護師不足”。
現役看護師として”看護とはなにか”想いを綴りたいと思います。あくまでも個人的な見解です。
14年間働いてみて思う”看護”への想い。

私は今まで多くの方と関わってきました。恐らく1,000人は遥かに超えます。
健康診断などを受けにきた元気な人、長期療養中の人、突然発症、交通事故…。
患者さんだけでなくそのご家族も含めると全ての方は思い出すことができないくらい多くの方に関わらせていただきました。
元気になって退院していく人も多くいます。しかし治療の甲斐なく亡くなる方もいます。
その度に無力さを感じます。医療が100%でないことは百も承知のことなのに助けられない命を前にすると辛くなるのです。
命が永遠でないのは自然の摂理。だからこそ私は看取りというケアを大切にしています。
私は看護師として働きながらも多くの方に支えられて、学ばせてもらって今まで生きてこれたのです。
▶私にしかできないことってなんだろう。模索する日々。
・看護って病気の人にだけに対してするものなのか。
・健康な人が健康診断でちょっこっとだけ関わるものなのか。
・病気になった時にお世話になるのが看護なのだろうか。
こんな思いや疑問が私の頭の中に浮かぶようになりました。
私は看護師として何ができるのだろう。その他大勢の中の一看護師で終わらせたくない。私にしかできないことは何だろう。
答えのなかなか見つからないループの中を迷走していました。
▶看護師を目指した理由。
私は看護師を目指す前、保育士かキャビンアテンダントで悩んでいました。
キャビンアテンダントは身長が148㎝しかなくて断念。
保育士は子供が大好きだったからという理由からでした。安易な考えをした自分に情けなくなりますが、子どもを産めば育児を通して保育士さんのようなことができると考えたのです(保育士さんごめんなさい)。
そして祖母の病気がきっかけで看護師の道を志しました。
看護師は私にとって天職です。
辛いことはたくさんありましたが看護師をしていなければ出会えなかった経験がたくさんあります。
私は看護師を辞めるつもりはなく一生看護師として生きていきたいと思っています。
その人がその人らしく生きていく。

14年が経過し私がいきついた”看護”の在り方は「その人がその人らしく生きていく」ことをサポートすることでした。
・風邪をひいたらお母さんが手当てしてくれる。
・困っている人を見つけたら助けてあげる。
・お年寄りの人がいたら席を譲ってあげる。
・具合の悪そうな人がいたら看病する。
これは看護師でなくてもできますよね。でも立派な手当てです。
その人(困っている人)のために何かをしてあげる。私にとってはこの全てが看護であると気づいたのです。
元気な人はより元気に、病気を抱えている人は抱えながらもその人らしく。
医療に100%はありません。どんなに助けたくても助けられない命はあります。
だからこそ私は”その人らしく”にフォーカスしていきたい。
そしてフォーカスするのは病気の側面だけでなく、仕事であってもいい。プライベートであってもいい。そう、なんだっていいんです。
困っている人がイキイキするために必要なら。ここに”看護”が存在するのだといきつきました。
本来の看護師像とはかけ離れているでしょう。世間一般的な考え方とも恐らく違います。
もちろん私はどこにでもいる看護師です。厚生省の定めた看護師保健師助産師法で守られながら国家資格として従事していますので看護師として働く以上は、法律を遵守し倫理を守り働いていきます。
この基本を守りながらも、私にとっての”看護”とは、健康な人はより健康に、病気の人は病気を抱えながらもその人らしく生きている、そのサポートをすることだと気づいたのです。

こんな看護師が一人くらいいたっていいでしょう。
熱い想いは人々の心に伝わると思います。私は14年目。14年といえば長く感じる方もいるかもしれませんが、まだまだ道半ばです。
これからも一看護師の成長を見守っていただけたら幸いです。